本能寺の変ののちより、清須会議までのそれぞれの武将の行動が
清須会議の結果をもたらせたわけですが
その説明です
( 明智光秀さんです )
天正10年6月2日 本能寺で主君、織田信長を殺害した明智光秀は
織田家 家臣団の相続争いのため、諸将の誘降( 仲間集めのこと )に3日間も費やし
6月6日に安土城に入り、9日上洛し朝廷工作を始めるが
秀吉の” 中国大返し ”の報を受けて山崎に出陣
13日の山崎の戦いに敗れ討たれました
( 柴田勝家さんです )
柴田勝家は上杉氏の城を3ヶ月の攻城戦の末、攻略に成功した6月3日には
主君 信長は既に亡く 変報が届くと上杉氏の反撃や地侍の躍起により
秀吉の様に軍を速やかに京へ返すことができず
( 豊臣秀吉さんです )
本能寺の変の頃、秀吉は 清水宗治の立て篭る” 備中高松城 ” を
包囲して毛利軍と対峙していました
6月3日に信長の横死の報を受けすぐさま、毛利側と和平を取りまとめ
6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津の武将を味方に付け
堺の織田信孝 丹羽長秀と合流し、13日の山崎の戦いで光秀を破ります
この非常に短い期間での中国からの移動を
『 中国大返し 』と呼びます
次回は最終回 明智 柴田 豊臣( この頃は羽柴秀吉と名乗っていました )の
三人の行動を建築現場を絡めて解説いたします
最終編 は
こちら→( http://yokazaki.blogspot.jp/2013/11/blog-post_8258.html )
6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津の武将を味方に付け
堺の織田信孝 丹羽長秀と合流し、13日の山崎の戦いで光秀を破ります
この非常に短い期間での中国からの移動を
『 中国大返し 』と呼びます
次回は最終回 明智 柴田 豊臣( この頃は羽柴秀吉と名乗っていました )の
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